第1部 うどんの歴史

1限

日本渡来以前のうどん

 人類最古の作物のひとつとされ、紀元前8千年頃から西アジアで栽培が始まったといわれる小麦。やがて小麦はシルクロードを経由し、中国に広まっていきます。

 ここでは、私たちが普段食べている「うどん」が、まだ「うどん」と呼ばれる前の歴史について学びます。

<文献>
・奥村彪生著 『日本めん食文化の1300年』(農文協)2009年
・石毛直道著 『麺の文化史』(講談社学術文庫)2006年
・岡田哲編 『たべもの起源事典』(東京堂出版)2003年
・岡田哲編 『コムギの食文化を知る事典』(東京堂出版)2003年

第1項 麺の東西文化 1-1

 日本は世界でも有数の麺大国です。世界中にある麺の食文化が一堂に会しています。うどん、そば、パスタ、そして中国料理を起源とするラーメンは、今や日本食の一部といっても過言ではありません。さらにインスタント麺やカップ麺などは、日本が起源の新しい食文化として生まれ育ったものといえます。

 日本にこれだけの麺文化が花開いた要因には、日本列島がユーラシア大陸の極東に位置することにも関係があります。日本に流入してきた海外の食文化は、その先に行き場所はなく国内に留まります。もともとの食文化は形を変え、独自の発展を遂げたていったのです。

 それでは、麺が西アジアから日本へ伝わった歴史を学んでいきましょう。

<文献>
・岡田哲編 『たべもの起源事典』(東京堂出版)2003年
・奥村彪生著 『日本めん食文化の1300年』(農文協)2009年
・石毛直道著 『麺の文化史』(講談社学術文庫)2006年
・岡田哲編 『コムギの食文化を知る事典』(東京堂出版)2003年

第2項 遥かなる麺ロード 1-2

 小麦、稲(米)などの穀物の主な食べ方は、「粉食」と「粒食」に分けられます。古代の東西の食文化を比較すると、ユーラシア大陸の西側では麦などを粉にしてパンに加工し、東側では粒食として米を食べていました。

 太古の小麦は、紀元前8千年頃のメソポタミアで栽培され、広まったといわれています。当時の遺跡からは、麦を粉にするための石臼のような道具が麦の一種とともに発見されています。麦を粉に変え、さらに加工する道具の発明が伴わないと、その後の「麺」の発達につながりません。

 小麦の栽培方法と現在の石臼と同じ原理を持つ粉化技術は、やがて西アジアからシルクロードを経て当時の中国へ伝わり、普及していきます。

<文献>
・岡田哲編 『たべもの起源事典』(東京堂出版)2003年
・奥村彪生著 『日本めん食文化の1300年』(農文協)2009年
・石毛直道著 『麺の文化史』(講談社学術文庫)2006年
・岡田哲編 『コムギの食文化を知る事典』(東京堂出版)2003年

第3項 中国の麺 1-3

 西アジアから伝わった小麦文化は、中国で麺の原型となる食べものに変化します。中国で「麺(ミエン)」というのは、もともとは小麦粉のことを指し、日本でいう「麺」にあたるものは「麺条(ミエンテイアオ)」と呼ばれていました。小麦を加工した食品には他に「餅」がありますが、これは日本の「もち」ではなく「ピン」といって、その後登場する麺の原型となった食べものです。小麦粉に水を加えて練ったものが「餅(ピン)」で、これが日本に伝わった後、長い年月を経て「うどん」に変化していくのです。

 「餅(ピン)」には、練った小麦粉を現在の饅頭や焼売のように蒸した「蒸餅(ツエピン)」、パンや煎餅のように焼いた「焼餅(サオピン)」、小麦粉に「みょうばん」や「かんすい」などの添加物を加えて棒状にねじって油で揚げた「油餅(イウピン)」、スープの中に入れてゆでた「湯餅(タンピン)」の4種類があります。

 この4種類の中で、「ゆでる」という調理法が現在の「麺」に発展していくのです。

<文献>
・岡田哲編 『たべもの起源事典』(東京堂出版)2003年
・奥村彪生著 『日本めん食文化の1300年』(農文協)2009年
・石毛直道著 『麺の文化史』(講談社学術文庫)2006年
・岡田哲編 『コムギの食文化を知る事典』(東京堂出版)2003年
・周達生著 『中国の食文化』(創元社)1989年
・辻調理師専門学校 中国料理研究室著 『テーブル式中国料理便覧』(評論社)1989年

2限

日本のうどんの歴史

 次に中国から渡ってきた「餅(ピン)」が、どうやって日本で独自の進化を遂げ、「うどん」に変わっていったかを学びましょう。

第1項 索餅(さくべい) 1-4

 「索餅(さくべい)」は、中国最古の麺と呼ばれ、小麦粉と米粉を混ぜて塩水で練り、太い縄状にねじった太い麺のことを指します。

 清の時代に書かれた書物には「索餅は水引餅(すいいんべい)のことである」と書かれています。「水引餅」とは、紐状にした麺を水につけてから人差し指と親指ではさみ、もみながらニラの葉のように薄く手延べしたものを指します。これをスープに入れてゆでて食べることから、うどんの直接の先祖といわれています。

 記録によると、日本でも奈良時代にはたくさんの「索餅」が作れていたようです。小麦粉の大量生産のために大型の回転式臼を使用していたといわれ、東大寺境内の古井戸からは臼の破片が発見されています。また平安時代には、長寿祈願の食べものとして宮中でも供応されていたといわれています。

<文献>
・奥村彪生著 『日本めん食文化の1300年』(農文協)2009年
・石毛直道著 『麺の文化史』(講談社学術文庫)2006年

第2項 麦縄(むぎなわ) 1-5

 「索餅」の「索」という漢字には「縄」という意味があり、「麦縄(むぎなわ)」という文字は「索餅」の直訳で、同じ食べものを指します。後の時代に出現する「切り麦」「冷や麦」「蒸し麦」「あつ麦」は、麺の種類や調理法を示すのと同時に「小麦粉で作った縄のように長い食べもの」という意味があり、時代とともに本来とは異なる意味を示す言葉が、同じような意味として捉えられたことになります。

<文献>
・奥村彪生著 『日本めん食文化の1300年』(農文協)2009年
・石毛直道著 『麺の文化史』(講談社学術文庫)2006年

第3項 切麦(きりむぎ) 1-6

 やがて小麦粉を水でこねて細く切った「切麦」という、うどんの原型が登場します。中国では小麦粉を使わずに麺がグルテン化しない素材(米、そば、緑豆等)を、円筒形の筒から直接湯の中に入れてゆでる食べ方があります。さらに中国の麺作りの進化の過程で、包丁で麺を切り出す方法が生まれます。宗の時代にはこれを「切麺(チェミェン)」と呼び、「切麦」のルーツといわれています。

<文献>
・奥村彪生著 『日本めん食文化の1300年』(農文協)2009年
・石毛直道著 『麺の文化史』(講談社学術文庫)2006年

第4項 「うどん」の語源は「餛飩(こんとん)?」 1-7

 「うどん」の語源は、昔から諸説があり、現在でもこれが正解だというものはありません。昭和初期の中国文学者、青木正兒氏(1887年~1964年)は、「餛飩(こんとん)」からの言葉の派生で「饂飩(うどん)」に変化したと唱えていました。これが長年、日本のうどんの語源の有力な説になっていたのです。

 この、「 餛飩(こんとん)=饂飩(うどん)説」に対して研究、検証を行い、異を唱えたのが伝承料理 研究家の奥村彪生氏(1937年~)です。奥村氏の著書「日本めん食文化の1300年」によると、「切麦(きりむぎ)からの派生で温飩(おんどん=太切りの熱湯つけ麺)」に変化したとあります。

 つまり、青木正兒氏の「言葉の変化による起源説」に対し、奥村彪生氏の説は「製法と食べ方による起源説」と解説しています。

<文献>
・奥村彪生著 『日本めん食文化の1300年』(農文協)2009年
・石毛直道著 『麺の文化史』(講談社学術文庫)2006年
・山本おさむ著 『ニッポンそば行脚そばもん・そば切り発祥伝説』(小学館)2016年

3限

うどんと日本文化

第1項 うどんと歌舞伎 1-8

 歌舞伎十八番のひとつ、「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら、通称・助六)」には、うどん屋の「福山の担ぎ(出前持ち)」が登場します。この時代は、うどんやそばなどの麺類を扱う商売を「けんどん屋」と呼んでいました。「けんどん」とは、上下と左右に溝があってふたの開閉が簡単にできる「けんどん箱」を意味し、当時はできあがったうどんやそばなどを入れて運ぶ箱として使われていました。

 「助六由縁江戸桜」は、吉原一の名遊郭、三浦屋の門兵衛という男が店への不満から一悶着起こします。そこに「けんどん屋の担ぎ」が通りかかり、門兵衛にぶつかることでますます騒ぎが大きくなるのですが、さらにそこへ助六が登場し、けんどん屋の担ぎを助ける場面が有名です。

 また、助六が門兵衛にうどんを無理矢理食べさせようとして、大量の胡椒を入れると門兵衛が「くさめ(くしゃみ)」をする場面があります。この時代のうどんは、胡椒をかけて食べるのが定番だったようです。

<文献>
・服部幸雄著 『歌舞伎事典』(平凡社)2011年
・『食の文化誌』 學燈社

第2項 うどんと俳句、近世文学 1-9

 俳聖・松尾芭蕉の門弟だった「榎本其角(えのもときかく)」の弟子に、「秋色(しゅうしき)」という女流俳人がいました。日本橋小網町(現在の東京都中央区)の菓子屋の娘だった秋色は、榎本其角に弟子入りした後、同門の「寒玉(かんぎょく)」の元に嫁ぎました。 

 寒玉は、最初は古着屋を営んでいましたが、江戸中期の元禄年間(1688~1704年)の頃から流行り始めていた「けんどん屋」に商売替えをしました。人気女流俳人の秋色を店の看板に繁盛したといわれています。

 同じ元禄時代、大阪では「井原西鶴」が活躍していました。「好色一代男」の巻二には、主人公の世之介が京から江戸へ向かう途中で、若狭・若松という姉妹の身請けをします。姉妹は芋川(現在の愛知県刈谷市周辺)で「ひらうどん(平打ちのうどん)」の店を開く場面が挿絵とともに描かれています。庶民の外食文化が徐々に盛んになっていった時代背景が分かります。

<文献>
・『食の文化誌』(學燈社)2000年

第3項 うどんと落語 1-10

 江戸初期の万治2年(1659年)頃には「振り売り(ふりうり)」と呼ばれる担ぎ屋台で移動するうどん屋が流行りましたが、深夜でも火を持って売り歩いていて火事の危険性があることから、貞亨3年(1686年)には「饂飩・蕎麦切何に不寄火を持ちあるき商売仕侯儀一切無用」という法令が出され、禁止されてしまいます。この頃、いかに夜中にうどんやそばの振り売りが多かったのかが分かります。

 落語には、「うどんや」という噺がありますが、まさに深夜に営業しているうどんの振り売りの噺です。「うどんや」は、冬に担ぎ屋台で鍋焼きうどんを作って商いをしている主人公が、お客さんに振り回されるという噺です。三代目柳家小さんの代表噺のひとつで、大阪の「風邪ひきうどん」として演じられていたものを東京に移植した落語です。夜中に振り売りをしているうどん屋やそば屋を上方では「夜啼きうどん」、関東では「夜鷹そば」と呼んでいました。「かわり目」という落語にも、同様に鍋焼きうどん屋が出てきますが、「うどんや」と同様、客からひどい目に遭わされる噺です。

<文献>
・興津要編 『古典落語』(講談社学術文庫)1973年
・麻生吉伸 『落語百選・冬』(社会思想社)1980年
・関山和夫著 『落語食物談義』(白水社)1991年

第4項 美食家の名随筆とうどん 1-11

 作家で、なおかつ美食家だった人は、うどんをテーマにした随筆を数多く残しています。時代を経て読むと、その時代のうどんがどのように生活の中にあったかが理解できるでしょう。

 洒脱なユーモア文学で人気があった「獅子文六(岩田豊男・1893~1969年)の「続 飲み食い書く」には「鍋焼きうどん」が登場します。明治時代の鍋焼きうどんは、[うどんと落語]にも出てくるように、夜中に行商人が移動式の屋台で営業していました。

 英文学者でありグルメでもあった「吉田健一(1893~1969年)」の随筆、「私の食物誌」の「関西のうどん」には、「関西のうどんは淡い味だが、てんぷらを足すと味が引き立ち、三杯は平気で食べるが五杯目だと飽きる」と記述されています。さらに「舌鼓ところどころ」には、大阪うどんの「卯月」が登場し、「うどんというのは、バタ(バターのこと)の代わりに醤油を使うマカロニだ」と書いています。

<文献>
・獅子文六著 『続・飲み・食い・書く』(角川書店)1981年
・壇一雄著 『壇流クッキング』(中央公論社)1986年
・吉田健一著 『私の食物誌』(中央公論社)1974年
・吉田健一著 『舌鼓ところどころ』(中央公論社)1989年

4限

うどんと仏教の関係

 日本の食文化には、中国から伝来してきたものが数多くあります。その原動力になったのは、中国と日本の間を往来していた仏教関係者といわれています。

 ここでは、長い歴史の中でうどんがどのような変化をとげたのか学習しましょう。

第1項 大陸文化の影響 1-12

 中国大陸から仏教が伝来した後、唐の時代には遣唐使(630~894年)の往来を通じて大陸文化が日本に流入し、さまざまな分野に大きな影響を与えました。646年の「大化の改新」は、唐の文化を模倣したもので、食文化にも変化を及ぼしました。庶民の食生活には大きな変化はないものの、貴族階級の食文化は唐様に変化していきました。

 またこの時代に行われた、小麦を粉に加工して作った唐菓子の輸入により、小麦粉も米粉とともに使用する機会が多くなりました。当初は貴族用の加工菓子でしたが、やがて唐菓子の「麦縄(むぎなわ)」が平安京の市でも売られていました。「今昔物語」の巻十九には、うどんの元祖ともいえる「索餅(さくべい)」が蛇に変わる話が納められており、徐々に庶民の間にも浸透していきました。

 やがてこの「索餅(さくべい)」は、うどんの元祖へと進化していきます。

<文献>
・奥村彪生著 『日本めん食文化の1300年』(農文協)2009年
・石毛直道著 『麺の文化史』(講談社学術文庫)2006年
・芳賀登/石川寛子監修 『全集・日本の食文化・第三巻・米・麦・雑穀・豆』(雄山閣)1998年
・岡田哲編 『たべもの起源事典』(東京堂出版)2003年
・歴史読本特別増刊事典シリーズ 『たべもの日本史総覧』(新人物往来社)1990年
・山本おさむ著 『ニッポンそば行脚そばもん・そば切り発祥伝説』(小学館)2016年

第2項 留学僧と食文化 1-13

 「宋」の時代(960年~)になると日本との国交自体はないものの、民間の交易はますます盛んになりました。宋へ留学した僧たちは、異国の食文化を日本へと持ち帰りました。また多くの中国人の僧たちも母国の食文化を日本に持ち込み、寺院を中心に伝播してやがて同化していったのです。

 宋との交流の拠点になったのが九州の博多で、当時の博多には「大唐街」とよばれる中国人街が形成されました。そして大唐街の貿易商人、謝国明の援助で宋に渡った「円爾(えんに)」という僧が製粉技術とともに「うどん」「そば」「饅頭」「茶」などを日本に持ち帰ったという説があります。つまり日本のうどんそばの発祥の地は博多というわけです。

 博多での宋との交易を通じて、小麦粉を挽く石臼など、粉食化のための技術が僧たちの手によって日本全国に広まったと想像されています。後に円爾が開いた福岡市の承天寺境内には「饂飩蕎麦発祥之地」と記された石碑が建っています。

<文献>
・奥村彪生著 『日本めん食文化の1300年』(農文協)2009年
・石毛直道著 『麺の文化史』(講談社学術文庫)2006年
・川上行蔵著 小出昌洋編 『完本・日本料理事物起源』(食生活語彙五種便覧)(岩波書店)2006年
・日本風俗史学会編/編集代表・篠田統/川上行蔵 『図説江戸時代食生活辞典』(雄山閣)1998年
・笹川臨風/足立勇共著 『日本食物史(下・近世から近代)』(雄山閣)2001年
・芳賀登/石川寛子監修 『全集・日本の食文化・第三巻・米・麦・雑穀・豆』(雄山閣)1998年
・岡田哲編 『たべもの起源事典』(東京堂出版)2003年
・歴史読本特別増刊事典シリーズ 『たべもの日本史総覧』(新人物往来社)1990年
・山本おさむ著 『ニッポンそば行脚そばもん・そば切り発祥伝説』(小学館)2016年

第3項 茶道と懐石料理 1-14

 2013年に「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録されましたが、現在の和食(日本料理)の形成に大きな影響を与えたのは中国から伝来してきた食文化で、やがて長い年月をかけて日本の中で洗練されていきます。

 鎌倉時代の初期、貴族文化から武士文化へと大きく変化していった時代に、臨済宗の開祖「栄西(えいさい)」によって中国から「抹茶」が伝えられます。やがて足利義政の時代に東山文化を代表する芸道のひとつとして花開いた茶道は、料理の発展に大きな影響を与えます。さらに茶道の創始者である「千利休(せんのりきゅう)」が、安土・桃山時代に茶道を確立していく中で形を定めた、正式な茶事の際に提供される食事、「懐石料理」が誕生します。

 この時代、禅宗の調理法と食法が次第に普及し、通俗化されて「点心(てんしん)」という食事が庶民の間にも普及していきました。この中に、「羹(あつもの・野菜を煮たお吸い物)」「餅類」「包子」「饅頭」、そして「麺類」があり、麺としてのうどんが広まっていく元になります。

<文献>
・奥村彪生著 『日本めん食文化の1300年』(農文協)2009年
・石毛直道著 『麺の文化史』(講談社学術文庫)2006年
・川上行蔵著 小出昌洋編 『完本・日本料理事物起源』(食生活語彙五種便覧)(岩波書店)2006年
・樋口清之著 『新版・日本食物史』(柴田書店)1987年
・江原潤子/石川尚子/東四柳祥子著 『日本食物史』(吉川弘文館)2009年
・新島繁著 『蕎麦年代記』(柴田書店)2004年
・日本風俗史学会編/編集代表・篠田統/川上行蔵 『図説江戸時代食生活事典』(雄山閣)1998年
・吉原健一郎/大濱徹也著 『増補版 江戸東京年表』(小学館)2002年
・田井友季子著 『着想 江戸時代の大ハヤリ食』(農文協)1989年
・藤村和夫著 『蕎麦のつゆ 江戸の味』(ハート出版)1994年
・新島繁・薩摩舛一共著 『蕎麦の世界』(柴田書店)1985年
・桜井秀/足立勇共著 『日本食物史(上・古代から中世)』(雄山閣)2001年
・笹川臨風/足立勇共著 『日本食物史(下・近世から近代)』雄山閣)2001年
・芳賀登/石川寛子監修 『全集・日本の食文化・第三巻・米・麦・雑穀・豆』(雄山閣)1998年
・岡田哲編 『たべもの起源事典』(東京堂出版)2003年
・奥村益朗編 『普及版味覚辞典・日本料理』(東京堂出版)1984年
・清水圭一編 『たべもの語源辞典』(東京堂出版)1980年
・吉田金彦編 『衣食住語源辞典』(東京堂出版)1998年
・吉川誠次/大堀恭良著 『日本・食の歴史地図』(NHK出版)2002年
・岡田哲著 『ラーメンの誕生』(筑摩書房)2002年
・臨時増刊 『歴史読本・日本たべもの百科』(新人物往来社)1974年
・歴史読本特別増刊事典シリーズ 『たべもの日本史総覧』(新人物往来社)1990年
・山本おさむ著 『ニッポンそば行脚そばもん・そば切り発祥伝説』(小学館)2016年

第4項 本膳料理と会席料理 1-15

 やがて、室町時代に確立した武家の礼法から始まり、江戸時代に発展した「本膳料理」と呼ばれる形式が生まれます。「本膳料理」には、料理の品数によって「二汁五菜」「二汁七菜」「三汁九菜」「三汁十一菜」などがあり、冠婚葬祭の儀礼料理として昭和初期まで続きました。

 千利休によって「懐石料理」の形式が整いましたが、一方で「会席料理」と呼ばれる形式も生まれました。「会席料理」は、当初は「本膳料理」を見習って膳数は三を原則としていましたが、江戸時代後期の安永・天明年間(1773-1788年)には、本膳をさらに簡素化して膳数を二として流行しました。この「会席料理」が、現在まで続く日本料理の基礎になるのです。さらに、「北大路魯山人(きたおおじろさんじん)」によって、膳で供されていた料理が卓(テーブル)に変わるなど、日本の食文化の近代化が進んでいきます。

<文献>
・川上行蔵著 小出昌洋編 『完本・日本料理事物起源』(食生活語彙五種便覧)(岩波書店)2006年
・樋口清之著 『新版・日本食物史』(柴田書店)1987年
・江原潤子/石川尚子/東四柳祥子著『日本食物史』(吉川弘文館)2009年
・新島繁著 『蕎麦年代記』(柴田書店)2004年
・日本風俗史学会編/編集代表・篠田統/川上行蔵 『図説江戸時代食生活事典』(雄山閣)1998年
・吉原健一郎/大濱徹也著 『増補版 江戸東京年表』(小学館)2002年
・田井友季子著 『着想 江戸時代の大ハヤリ食』(農文協)1989年
・桜井秀/足立勇共著 『日本食物史(上・古代から中世)』(雄山閣)2001年
・笹川臨風/足立勇共著 『日本食物史(下・近世から近代)』(雄山閣)2001年
・芳賀登/石川寛子監修 『全集・日本の食文化・第三巻・米・麦・雑穀・豆』(雄山閣)1998年
・岡田哲編 『たべもの起源事典』(東京堂出版)2003年
・奥村益朗編 『普及版味覚辞典・日本料理』(東京堂出版)1984年
・清水圭一編 『たべもの語源辞典』東京堂出版)1980年
・吉田金彦編 『衣食住語源辞典』東京堂出版)1998年
・吉川誠次/大堀恭良著 『日本・食の歴史地図』(NHK出版)2002年
・岡田哲著 『ラーメンの誕生』(筑摩書房)2002年
・臨時増刊 『歴史読本・日本たべもの百科』(新人物往来社)1974年
・歴史読本特別増刊事典シリーズ 『たべもの日本史総覧』(新人物往来社)1990年

5限

うどんと和食の関係

 ここでは、伝統的な日本料理(和食)に使用する調味料がどのように変化してきたかを見てみましょう。醤油が登場する前の調味料と醤油の発達、昆布とかつお節の成り立ちも和食の進化では重要な項目です。

第1項 醤油が登場する前の調味料 1-16

 日本を代表する調味料といえば「醤油」。この醤油が登場する前は、どのような調味料を使っていたのでしょうか。

 醤油が登場する前の日本の代表的な調味料は「煎り酒(いりざけ)」と呼ばれる液体調味料でした。室町時代末期に登場した「煎り酒」は、弘治3年(1557年)に「松屋会記(まつやかいき)」という茶会を記録した書物に記録が残っています。また、寛永20年(1643年)刊の『料理物語』にはその作り方が記されています。

この「煎り酒」の作り方は、

「かつお節一升、梅干十五~二十個、古酒二升、水を少し、溜(味噌の液体)を少し入れ、一升に煎じて濾し、冷やして良し」

とあります。

 これを刺身などにつけて食べます。味は醤油に劣らないものでしたが、醤油に比べて製造費がかかることもあり、醤油が定着した江戸時代中期には消滅してしまいました。しかし近年、この「煎り酒」がおいしいとの声も多く、幻の調味料として各地で復活しているようです。

 「煎り酒」の他には、塩を水で煮詰めて作る「水塩(みずしお)」や、かつお節を煮つめてとっただし汁「煎汁(いろり)」などがありました。うどんが広く好まれる食べ物となったのは、これら調味料とだしの進化に大いに関係があります。

<文献>
・樋口清之著 『新版・日本食物史』(柴田書店)1987年
・江原潤子/石川尚子/東四柳祥子著『日本食物史』(吉川弘文館)2009年
・新島繁著 『蕎麦年代記』(柴田書店)2004年
・日本風俗史学会編/編集代表・篠田統/川上行蔵 『図説江戸時代食生活事典』(雄山閣)1998年
・桜井秀/足立勇共著 『日本食物史(上・古代から中世)』(雄山閣)2001年
・笹川臨風/足立勇共著 『日本食物史(下・近世から近代)』(雄山閣)2001年
・芳賀登/石川寛子監修 『全集・日本の食文化・第三巻・米・麦・雑穀・豆』(雄山閣)1998年
・岡田哲編 『たべもの起源事典』(東京堂出版)2003年
・奥村益朗編 『普及版味覚辞典・日本料理』(東京堂出版)1984年
・清水圭一編 『たべもの語源辞典』(東京堂出版)1980年
・吉田金彦編 『衣食住語源辞典』(東京堂出版)1998年
・吉川誠次/大堀恭良著 『日本・食の歴史地図』(NHK出版)2002年
・臨時増刊 『歴史読本・日本たべもの百科』(新人物往来社)1974年
・歴史読本特別増刊事典シリーズ 『たべもの日本史総覧』(新人物往来社)1990年
<取材>
「松前屋」 松前屋広報室/松村松前屋社長
http://www.matumaeya.jp/mizushio/

第2項 醤油の登場 1-17

 日本の醤油の原型は唐の時代に「穀醤(こくしょう)」として伝えられました。701年に文武天皇が制定した「大宝律令(たいほうりつりょう)」という法令には、「醤院(ひしおつかさ)」という大豆、米、麦などで「醤」を作り保管した役所があったことが記されています。

 「醤」は、肉や魚を保存するために生まれた塩蔵品の総称で、「草醤(くさびしお・後の漬物)」、「魚醤(ししびしお・後の肉醤、塩辛)」「穀醤(後の味噌)」の3種類があります。

 鎌倉時代前期(1254年頃)に禅僧の「覚心(かくしん)」が、宋から「径山寺味噌(きんざんじみそ)」を持ち帰り、味噌樽の底に溜まった液汁の味がよいと珍重され「溜醤油(たまりしょうゆ)」が誕生したといわれています。

 安土桃山時代(1535年頃)には、紀州湯浅(現在の和歌山県有田郡湯浅町)で本格的な醸造がはじまり、天正5年(1587年)には、播州龍野(現在の兵庫県たつの市)で「薄口醤油」が作られました。

 その後、紀州の醤油は関東に「下り醤油」として運ばれます。やがて野田や銚子で大麦を原料に取り入れた麦麹から「濃口醤油」が誕生します。素材を活かす関西の「薄口醤油」に対し、醤油と砂糖で調味する「濃口醤油」は関東を中心に普及し、関西=薄口、関東=濃口と、うどん、そばのつゆの色にも反映されるほどに違いが際立っていきます。

<文献>
・樋口清之著 『新版・日本食物史』(柴田書店)1987年
・江原潤子/石川尚子/東四柳祥子著『日本食物史』(吉川弘文館)2009年
・新島繁著 『蕎麦年代記』(柴田書店)2004年
・日本風俗史学会編/編集代表・篠田統/川上行蔵 『図説江戸時代食生活事典』(雄山閣)1998年
・桜井秀/足立勇共著 『日本食物史(上・古代から中世)』(雄山閣)2001年
・笹川臨風/足立勇共著 『日本食物史(下・近世から近代)』(雄山閣)2001年
・芳賀登/石川寛子監修 『全集・日本の食文化・第三巻・米・麦・雑穀・豆』(雄山閣)1998年
・岡田哲編 『たべもの起源事典』(東京堂出版)2003年
・奥村益朗編 『普及版味覚辞典・日本料理』(東京堂出版)1984年
・清水圭一編 『たべもの語源辞典』東京堂出版)1980年
・吉田金彦編 『衣食住語源辞典』東京堂出版)1998年
・吉川誠次/大堀恭良著 『日本・食の歴史地図』(NHK出版)2002年
・臨時増刊 『歴史読本・日本たべもの百科』(新人物往来社)1974年
・歴史読本特別増刊事典シリーズ 『たべもの日本史総覧』(新人物往来社)1990年
<取材>
「松前屋」 松前屋広報室/松村松前屋社長
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第3項 昆布とかつお節とだし 1-18

 日本料理で「だし」というのは、昆布やかつお節の旨味成分を水の中で抽出したものを指します。 だしという言葉が登場する一番古い書物は、寛永20年(1643年)の「料理物語(著者未詳)」です。当時昆布は、北海道から「北前船」で若狭の小浜(現在の福井県小浜市)に運ばれていましたが、北前船が盛んになると船も大型化し、集積地である越前敦賀(現在の福井県敦賀市)が栄え、敦賀港から陸路で京都・大阪へと運ばれました。寺院の多い京料理の影響もあり、上方は昆布のだしを重用したのです。

 また北海道の昆布は、大阪の問屋に集められて全国に出荷されました。昆布の加工技術も含めて関西のだしの中心は昆布になったのです。

 一方のかつお節ですが、最初はかつおの切り身を煮てから日に干し、乾燥させただけのものでしたが。1674年(延宝2年)には、紀州の漁師である紀州甚太郎が火力による乾燥を加えた「燻煙法」で作るかつお節を開発し、著しく品質が向上しました。

 このかつお節作りが各地に伝わり、その土地の名を冠して、「土佐節」「紀州節」「薩摩節」「伊豆節」「焼津節」「安房節」などと呼ばれ、関東のだしの中心になっていくのです。

<文献>
・樋口清之著 『新版・日本食物史』(柴田書店)1987年
・江原潤子/石川尚子/東四柳祥子著『日本食物史』(吉川弘文館)2009年
・新島繁著 『蕎麦年代記』(柴田書店)2004年
・日本風俗史学会編/編集代表・篠田統/川上行蔵 『図説江戸時代食生活事典』(雄山閣)1998年
・桜井秀/足立勇共著 『日本食物史(上・古代から中世)』(雄山閣)2001年
・笹川臨風/足立勇共著 『日本食物史(下・近世から近代)』(雄山閣)2001年
・芳賀登/石川寛子監修 『全集・日本の食文化・第三巻・米・麦・雑穀・豆』(雄山閣)1998年
・岡田哲編 『たべもの起源事典』(東京堂出版)2003年
・奥村益朗編 『普及版味覚辞典・日本料理』(東京堂出版)1984年
・清水圭一編 『たべもの語源辞典』東京堂出版)1980年
・吉田金彦編 『衣食住語源辞典』東京堂出版)1998年
・吉川誠次/大堀恭良著 『日本・食の歴史地図』(NHK出版)2002年
・臨時増刊 『歴史読本・日本たべもの百科』(新人物往来社)1974年
・歴史読本特別増刊事典シリーズ 『たべもの日本史総覧』(新人物往来社)1990年
<取材>
「松前屋」 松前屋広報室/松村松前屋社長
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